2021/04/07 21:40

どうやら山は毎日違うようだ。
昨日はダメに見えても、今日はよく見えたりする。

まったく同じ木なんてどこにもない。
一日に一回は笑うほどおもしろい曲がりや節を持つ木を見つけるし、新しい木の性質を知ることができる。

しかしこうも来る日も来る日も枝を処理し続けていると、自分が世の中から取り残されたようにも思える。

いったい自分は何をやってるんだと思う。
ずいぶんみんなが自由で楽しそうに思える。

この三週間、延々と鉈を振り続けた。
最近は新たな技を覚え、作業の効率はあがったように感じるが、チェンソーで処理しきれない部分まで簡単に処理できるようになったというだけで、枝たちは倍から生かせることになるが処理する本数でいえば倍から増えている。
それでも同じ本数をチェンソーで処理するよりはだいぶ楽だろう。
私は鉈が好きだ。

気の遠くなる作業でも、すべて自分の責任だ。
どれだけ世間から急かされても、木は一本一本枝先の先まで処理してから次に取り掛かるべきだ。木を切る者には責任がある。
一銭にもならなくてもこれを終えない限り次はないと心に決め、これこそが次に向かうための道のりなのだと思えばそれが励みになった。
今週か来週中には全部片付くだろう。
前なら怖気づくような枝の山を見ても、今はたいしたことはないと思う。

昔に切ったまんまの木もたくさんあった。
これらはみんなでキャンプする用に、と残していたものだが一旦は全部片づけることにした。

みんなでわいわいキャンプしながら、森林を守り残し、誰にも文句は言わせないようお金も稼ぎ回しながら楽しく豊かにのびのびと暮らす。

これが当初の目標だったが、今はそこまで思わない。
けして諦めたわけじゃないが、今はまだその段階にない。

森林を守り残してお金を稼ぐということ。
まずはこの一点を非の打ち所がないほど確立させなければ、将来性もないし持続もしないし山には誰も来ない。

山は欲たかりにばかり食い荒らされる一方だ。
欲たかりが悪い訳じゃない。
欲たかりから何を学び、そして私が何をするかというだけの問題だ。
だから感謝もしよう。ありがとう!

私は大木を見て、これが一本何万か、と思ってしまうこともある。
自分の腕を試してみたいと思ってしまうこともある。

けれどももっと強く、顔も知らないほかの誰かや子供たちが、いつかその木や山に愛着を持つかもしれないと思う。

これがあと100年、1000年経ったら?
こっちは本物の欲たかりで、私にとってはその姿のほうが楽しみなのだ。

よくぞ残してくれたなんて、きっと誰も思わないだろう。
みんな残されたものなんて当たり前に思ってるし、失われるものに文句を垂れるだけだ。

それよりなにより私は大木の下に落ちる小さな木の実を見つけるたびに、これでいいと今日も確信している。

今の世の中に残された当たり前のものの中にも、昔の人たちの強烈な思いが込められたものがたくさんあるのだろう。